6月15日の空腹時血糖値は116mg/dlでした。

最近、デフリンピックで東京へ行こうと決めました。

正直に言うと、これまでの僕にとって、あの催しはそれほど参加の必要性を感じる出来事ではありませんでした。

ろう者の知り合いもいませんし、自分がその世界に深く関わっているという実感もなかったからです。

 

しかし、ここ数年のコロナ禍を経験して、僕の中で大きな変化が起こりました。

つくづく実感したのは、自分は間違いなくデフの世界の人間なんだということです。この気づきは、思いもよらない形でやってきました。

周囲の人たちが100%マスクを着用するようになったとき、僕は初めて自分がどれほど読唇に頼って生きてきたかを痛感させられました。

それまで無意識に行っていた唇の動きを読み取るということが、突然できなくなってしまったのです。

マスクに隠された口元は、僕にとって重要な情報源を遮断する壁となりました。

日常生活の中で、コンビニでの買い物や職場での会話、ちょっとした挨拶まで、すべてが困難になりました。

相手が何を話しているのか分からず、何度も聞き返すことが増えました。

相手の目つきや身振り手振りだけで内容を推測することがほとんどでした。

知り合いが向こうから歩いてくるのが見えると、自然と避けるようになりました。

まるで「逃亡者」です。

 

そんな日々を過ごしながら、僕は自分のアイデンティティについて深く考えるようになったのです。

最近になって、地方ではマスクの装着率も5割くらいまで下がったのではないでしょうか。

セブンイレブンなどのコンビニでは、もっと少なくなったように感じます。

店員さんはマスクを装着していますが、お客さんの口元を見ることができるようになりました。

世間の人々は、それぞれが以前の世界へ戻ろうとしているのかもしれません。

 

しかし、僕はもう以前の世界に戻れなくなりました。

コロナ禍を通じて気づいた自分の本質を、今更なかったことにはできないのです。

もうデフとして生きるべきだと思っています。

これは逃避でも諦めでもありません。むしろ、自分らしく生きるための前向きな選択だと考えています。

コロナは、僕の人生に明らかな境界線を引いてくれました。

「以前の自分」と「今の自分」をはっきりと分ける線を。

この線の存在を恨んでいるかと言われれば、そうではありません。むしろ感謝しています。

もしコロナがなければ、僕は一生、自分の本当の姿に気づかないまま過ごしていたかもしれないからです。

そんなわけで、デフリンピックへ参加することは、僕にとってわりと自然な選択でした。

以前の僕だったら、かなり逡巡したでしょう。

「本当に行く必要があるのか」
「自分がそこにいて楽しいのか」
「周りの人たちと打ち解けることができるのか」など、様々な不安や疑問が頭をよぎりました。

でも今は違います。

デフリンピックは、たぶん同じような経験をして訪れている人たちがいると思います。

これはコロナ・パンデミックがもたらした新しいタイプの「漂着者」です。

そういう僕にとってデフリンピックは、自分のアイデンティティを確認し、さらに深めていくための貴重な機会でもあります。

 

妻に東京行きの話をしたところ、快く相伴してくれることになりました。

彼女は僕の変化を近くで見ていて、この決断がいかに重要なものか、少しは分かってくれてるのかな、と思います。

一人で行くことも考えましたが、妻が一緒にいてくれることで、心強く感じています。

妻には何か感謝を示さなければなりません。

 

職場への届け出も思っていたよりもスムーズでした。

上司に話すと、何の疑念も挟まず、すぐに承諾してくれました。有給休暇を使って行って良いということになり、職場の理解にも感謝しています。

きっと、不憫に思われていたのだろうな。

 

デフリンピックは、ろう者のためのオリンピックです。

世界中のろう者アスリートが集まり、素晴らしい競技を繰り広げます。

正直言って、誰を応援するべきかすら分からない。

僕は選手として参加するわけではないけれど、応援に行くことで、この特別な世界の一部の義務を果たせるような気になれるかもしれない。

手話を使ってコミュニケーションを取る機会もあるかもしれない。

なくても全然構わない。

コロナ禍で気づいた自分の本当の姿。マイノリティの事実を受け入れたということ。

デフリンピックへの参加は、そんな僕の人生の新しい流れだと思うんです。

 

そんなわけで、僕はデフリンピックに応援に行く気でいます。