何の変哲もない脱力系自己管理ブログです。

Kindleの長い一日

Kindleの長い一日

8月30日夜勤明けの空腹時血糖値は93mg/dlでした。

 

三年前に、断捨離を思い立って、電化製品や衣類をゴミに出したんですが、どうしても捨てられないものがありました。

段ボール箱いっぱいの童話·小説作品です。

今でこそ、書き上げた原稿はフォームにアップロードして投稿し、元原稿はファイルとしてPCに保存しておけます。

でもこれは最近の流れであり、長らく応募原稿ってのは、手書きにしろ、印刷にしろ、一旦紙に出力して送るのが常識だった。

大昔は原稿をヒモで綴じて、書留で送ってたし、その後はクリップで挟んで、レターパックで送ってた。

その大昔からの原稿が段ボール箱に2個あったわけです。

これは可燃ゴミですね。または資源ゴミとして出すこともできます。

書いた人間が自分でなければ、の話です。

その時、僕がその駄作群にやってやれることと言えば、ブログにアップロードして、クラウド保存することだった。

そうして出来上がったのが、児童文学サイト「おしゃべりドラゴ」であり、現在の小説サイト「ドラゴ·ナラティブ」でした。

ただ文章だけ掲載しても誰も読まんだろうと思って、一話ごとに挿絵を描くことにしました。

絵はとても下手なんですが、無料イラストサイトとかから、文脈に合わない絵を借りてくるより、下手でも自分のイメージを提示した方がいいと思ったんですよね。

気が付いたら、iPad、Apple Pencilまで買い込んで描いていました。

ただ、こうやって賢明にサイトを運営しても、いずれは徐々に、いや一瞬にして、泡沫の如く消滅してしまうことも知っていました。

「作品を失くさないようにするには、どうすればいいのか?」

この問いに、AIは「Kindle化すればイイじゃん!」と明快に答えました。

「キンドルカ⋯」

そう復唱し、僕は長いこと窓からの景色を眺めていました。

空は青い、白い雲がたなびき、小鳥が電線から飛び立っていく。

尿意を覚えトイレに立ち、部屋に戻ってくると、PCのタイピングを再開しました。

まずは、Kindleについて調べました。

Amazonで本を売る。

しかも出版社を通さず、自分で。
何だか凄いことのように聞こえます。

僕は長いこと小説を書いてきましたが、自分で本を出版しようなんて考えたことは、一度もありませんでした。

文学賞に応募して、運よくどこかの出版社の目に留まり、本になる。
本というものは、そういう選ばれた人だけが作れるものだと思っていたんです。

ところがKindleの場合、僕でも出せるらしい。

しかも無料。

「無料なのか……」

そこは非常に重要です。

無料なら、失敗しても腹は痛まない。

売れなくても、まあ、元々売れると思っていない。

目的は商売ではなく、保存なのです。

段ボール箱に眠っていた原稿を、ブログという形でインターネット上に逃がした。

そのブログもいつか消えるかもしれない。

だったら今度は、本という形にしてAmazonに置いてしまえばいい。

なかなか良い考えではないか。

僕は最初の一冊をKindle化することにしました。

ここまでは良かった。

問題は、僕が「Kindle化」という言葉から想像していたものと、実際にやることの間に、かなりの距離があったことです。

原稿をWordに入れる。
目次を作る。
見出しを設定する。
挿絵を入れる。
表紙を作る。
著者紹介を書く。
内容紹介を書く。
カテゴリーを決める。
検索キーワードを決める。
価格を決める。
ロイヤリティを決める。
AI生成コンテンツについて申告する。

何だこれは。

小説を書くより、やることが多いじゃないか。

それでも電子書籍のうちは、まだ良かったんです。

僕の中では、
「まあ、これも作品保存のためだ」
という理屈が通用していました。

ところが、一冊目のKindle化が終わったあたりで、僕の中に余計な欲が芽生えました。

紙の本にもできるらしい。
ペーパーバックというやつです。

「ペーパーバックカ……」

また僕は窓の外を眺めました。
この時、もう一度尿意を覚えてトイレへ行っていれば、何かが変わったのかもしれません。

しかし残念ながら、その時は尿意がありませんでした。

僕はそのままクリックしてしまいました。

ここからが長かった。

判型。
裁ち落とし。
余白。
綴じしろ。
ページ数。
背幅。
表紙サイズ。
裏表紙。
バーコード。
フォントの埋め込み。
PDF。
そして、プレビュー画面に現れる、容赦のない赤い線。

知らんがな。
背表紙の幅なんて。

僕は小説を書いていたはずなんです。
いつから印刷所の人間になったんだ。

Wordの画面を開いて、ミリ単位で画像を動かしている時など、自分が何をしているのか分からなくなることもありました。

表紙を直してPDFにする。
アップロードする。
弾かれる。
また直す。
PDFにする。
アップロードする。
今度は通る。
喜ぶ。
翌日になって気になるところを見つける。
また直す。

妻から見れば、
「昨日、完成したって言ってなかった?」
という話です。

僕自身もそう思います。
完成したんですよ。
昨日は。

今日は今日で、また完成していないだけです。

そうやって悪戦苦闘しながら、昔書いた作品を一冊ずつ本にしていきました。

そして、実際に紙の本になったものが家に届いた時、少し不思議な気持ちになりました。

そこに書かれている文章は、新しく書いたものではありません。

何十年も前に書いたものもあります。

段ボール箱の底で、もう二度と日の目を見ることもないと思っていた原稿です。

断捨離の時、ゴミ袋に入れようと思えば入れられた。

資源ゴミの日に紐で縛って、玄関先へ出すことだってできた。

でも、できなかった。

あの時の僕には、その理由がうまく説明できませんでした。

今なら、少し分かります。

作品が素晴らしいからではありません。

むしろ読み返せば、
「なんだ、この文章は」
と思うところが山ほどあります。

話は脱線する。
ギャグはしつこい。
説明は長い。

若い頃の僕が、得意になって書いている姿まで透けて見える。

直したいところなど、いくらでもあります。

でも、それを全部きれいに直してしまったら、たぶん違うものになる。
下手だった頃には、下手だった頃にしか書けなかったものがあります。
未熟だった頃には、未熟だった頃にしか考えられなかったことがあります。

それも含めて、僕が書いてきたものなんでしょう。

だから結局、捨てられなかった。
三年前、段ボール箱二個分の紙を前にして始めたことは、断捨離とは正反対のことだったのかもしれません。

物を減らそうとしていたはずなのに、ブログを作り、iPadを買い、Apple Pencilを買い、挿絵を描き、とうとう本まで作ってしまった。

全然減ってない。
むしろ増えている。

ただ、段ボール箱の中にあった「捨てられない紙の束」は、少しずつ別のものに変わりました。

作品になった。
本になった。
そして、本棚に並んだ。

売れるかどうかは、また別の話です。
実際、そう簡単に売れるものではありません。

でも僕の場合、それでいいんだと思います。

最初にAIへ尋ねたのは、
「どうすれば売れますか?」
ではありませんでした。
「作品を失くさないようにするには、どうすればいいのか?」
だったのです。

その目的だけは、今のところ果たせています。

もっとも。
最近、本棚を眺めながら、新しい心配が生まれました。

これ、僕が死んだら誰が処分するんだろう。

三年前と同じ問題が、形を変えて戻ってきただけのような気もしています。

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