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善意を眺めながら、少し考えたこと

善意を眺めながら、少し考えたこと

8月24日日曜日の空腹時血糖値は105mg/dlでした。

 

「こんなことは書くべきではない」と、何回自分に言い聞かせたことか⋯。

書いて得することなど、何一つないからだ。

でも、書くことにした。

僕の心の狭さが、どうしても書くことを促している。

今回の熊本地震は、いや過去だってそうだった。

「スネに傷を持つ」有名人の、格好のイメージ回復の場に利用されている。

もちろん、支援そのものを否定するつもりはない。

水を届けてくれる。食料を届けてくれる。義援金を出してくれる。

助かった人がいるのなら、それは間違いなく善いことだ。

金だって物資だって、ないよりあるほうがいい。

そんなことは分かっている。

だから、こんなことを書くべきではないのだ。

分かっているから、余計に腹が立つ。

テレビやネットを見ていると、被災地へやって来た有名人が映る。

物資を運び、被災者と言葉を交わし、汗を流す。

カメラがそれを撮る。

ニュースになる。

SNSにも流れる。

そしてコメント欄には、

「見直した」

「本当はいい人だったんですね」

「行動できる人はすごい」

そんな言葉が並ぶ。

そのたびに、僕の中に何とも説明しにくいものが湧いてくる。

いや。

説明しにくくはない。

嫌なのだ。

被災地が、誰かの禊の場所みたいになっていることが。

災害で家を失った人がいる。

眠れない夜を過ごしている人がいる。

余震が来るたびに身体を硬くしている人がいる。

明日からどうやって暮らしていこうかと、本気で途方に暮れている人がいる。

その場所が、いつの間にか、

「この人、実はいい人だったんですよ」

という物語の背景になっている。

もちろん本人に、そんな意図はないのかもしれない。

純粋に何かしたいと思って来ている人だって、きっといる。

むしろ、そういう人のほうが多いのかもしれない。

僕には他人の心の中なんて分からない。

だから「売名だ」と決めつけることもできない。

それでも、カメラが入り、記事になり、過去の不祥事までセットで語られ、

「見直した」

という話になった瞬間、僕はどうしても引っかかってしまう。

なぜ、災害までその人の物語になってしまうのだろう。

ここで主役なのは、その人ではないだろう。

被災した人たちだ。

もっと言えば、名前も出ないまま働いている人たちだ。

道路を直している人。

水道を復旧している人。

避難所で夜通し働いている人。

物資を仕分けしている人。

近所の高齢者を見に行く人。

倒れた家具を一緒に起こしている人。

そんな人たちは、たいていニュースにならない。

「見直した」とも言われない。

そもそも、見直される必要がない。

ただ、やっている。

僕はたぶん、そこに一番惹かれる。

誰にも見られていなくてもやる。

褒められなくてもやる。

終わったら家に帰る。

それでいいじゃないかと思う。

もっとも、これは随分と勝手な言い分でもある。

有名人だからこそ注目される。

有名人だからこそ、「自分も何かしよう」と思う人を増やせる。

名前を使って寄付を集めることだってできる。

それもまた、紛れもなく力なのだ。

だから僕は、有名人は被災地に来るな、と言いたいわけではない。

来てくれればいい。

助けてくれればいい。

ありがたい。

ただ――。

その人が帰ったあとまで、被災地では生活が続く。

カメラがいなくなっても、壊れた家は壊れたままだ。

ニュースが次の話題へ移っても、余震に怯える夜は続く。

「いい人だったんですね」

というコメントが流れていったあとにも、ここでは日常を取り戻す作業が続いていく。

災害は、誰かの人生を立て直すための舞台ではない。

ましてや、誰かの評判を立て直すための舞台でもない。

そう思ってしまう僕は、やっぱり心が狭いのだろう。

それでも今回は、

その狭い心のほうを書いておくことにした。

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