この4月から手話言語条例が施行されるそうです。
僕は難聴者でありながら、聴覚障害者を取り巻く諸問題について恐ろしく疎いので、この条例が具体的にどのように役立つのかわからないのですが、手話という言語を尊重し、これの理解と広がりを地域で支え合うという主旨だそうです。要するに手話をもう少しメジャーな言語として認識し活用できるようにするということでしょうか。
僕はもう10年くらい手話を学んでいるのですが、最近ようやくその面白さがわかってきたところです。しかし未だに、手話と字幕が同時に出てくる番組などを観ると、やはりどうしても字幕を読んでしまいますね。
こんなに覚えが悪いのに関わらず、僕がなぜ、諦め悪く手話にこだわるっているのかというと、実は自分でも不可解かつ不思議なんです。
僕は普段の生活では話し友達もおらず孤独です。その反面、あまり寂しさも感じてないと自分では思っています。他人から見てもあまり人好きするタイプには見えないようです。仕事上のやり取りなんか、随分丁重に距離を置かれてしまいます。そんな人間が苦労しながら手話を習得しようとしているわけですから、全くもって不思議です。自分でも首を傾げるしかありませんでした。
話は変わりますが、ある情報サイトでこういう心理テストを見かけました。これが何の絵に見えるかという問題です。
僕は咄嗟に「パックマン」に見えたんです。答えの選択肢には「口を開けている人」というのがあって、そういえばパックマンは口を開けている人だよなぁと思って、そこの文章を読み進めたんですよ。そこには「お喋りが好きな人」という分析がありました。
ここで長年の疑問が氷解したような気がしました。つまり僕は本来お喋りなんですが、聴覚を失ったばかりにお喋りができないんだということ。それで無意識に手話に惹かれていったというわけです。
そういえば普段は全然喋らないのに、夜勤の時はパートナーとマンツーマンなんで長々と話をしたりしてるもんなぁ。結構くだらない話を面白おかしく話したりして、パートナーとの距離がぐんと縮まったりするよなぁ。つまりそういう経験を積んでいくことで、やはりコミュニケーションは大切なんだな、と自分なりに感じていたんだと思います。
しかし実際問題として、補聴器や人工内耳を持ってしてもスムーズな会話は困難です。会話の途中で何度も聞き返したりしていると、普通の人はもっとコミュニケーションが取りやすい話し相手の元に流れてしまいます。僕も一緒に仲間に加わればいいんだけれども、複数の人間とのコミュニケーションはもっとハードルが上がってしまいますので、僕はのけ者になり、感情的に面白くありません。そういう時の僕は、おそらくひねくれ者に見えているに違いありません。本当は耳が聞こえないだけなのに、そういう人格に受け取られてしまうのはちょっと困ったものです。決していじけているわけではなく、自然と人の輪から離れていってしまうんです。これは摂理だと思います。そんなわけで、僕はずっと一人ぼっちなんです。
今言ったことは、自分の推測であって、全て後付けに過ぎないんですけど、概ね当たっていると思います。僕が手話を学ぶ理由はこれだと思いました。
それにしても連日コロナウイルスの猛威が報道され、著名な芸能人がお亡くなりになるなど事態は深刻さを増しています。僕も色々と持病を抱えている人間なんで、外出は慎重にならざるを得ません。
うちには子供はいないけど、今は春休みで、大勢の子供達が遊びたい盛りなのに、家に閉じこもっています。公園に数人くらいいてもいいはずなのに、全く姿が見えない。親や学校からかなり厳しく言われたんだろうな。
手話サークルも随分ご無沙汰になり、せっかく 苦労して覚えた単語もこれじゃあ忘れちゃうなぁと、ぼやきながら過ごしています。まぁ、我が家ではこの程度の緊迫感です。