日曜朝の血糖です。もうちょっと頑張らないと…。ん、頑張るって、何を ?

ちょっと最近の難聴生活について書いてみますね。

僕は5歳くらいで失聴したんで、言葉は喋れるんですけど、補聴器がないと全然会話になりません。加えて、コロナの環境下マスクのおかげで、読唇がまるで出来ないので、当初は困りました。でも慣れとは恐ろしいもので、今ではコロナ以前と変わらないくらい、コミュニケーションをこなしています。

結局、何だろうな。仕事に出掛ければ、それなりにコミュニケーションが必要になるし、周囲は僕の陥っている逆境なんてお構いなしに気さくに話しかけてくるし、まぁ僕としてはそんな気さくさに負けて、苦労しつつ苦笑しつつ対応している現状です。

いじけてる暇が全くないんですよ。

ところで、自宅では補聴器を外していますので、妻とはどうコミュニケーションを取っているかというと、まさか会話するたびに補聴器を装着するわけにもいかず、手話を織り交ぜながら、会話しています。

といっても、そんなにハイレベルなやりとりをしているわけではなく、例えば…妻が指文字で、「とんが」とやれば、「ああ、地震があったってね」と僕が答え、続いて「つなみ」と妻の指文字が出てきます。「うん、そうだな。でも小さい波みたいだから、心配いらないってネットに出てたけど…」という具合に会話が始まって、あとは口話でのやり取りになります。

つまり僕は会話のつかみさえ把握出来れば、あとは勝手に波に乗れちゃうタイプらしいです。

だから僕の妻の手話の腕前は、いつまで経っても指文字止まり。指文字っていうのは、50音を指の形で示す、手話の前段階のサインです。「あ」という指文字と「め」という指文字を続けると「あめ」という読みになる。でも「雨」なのか「飴」なのか分からないですね。だから本式の「雨」という手話(頭の上から下向きの手を降ろす)に移行するんだけど、妻はここへは一歩も踏み出そうとしない。

僕の妻だけがそうなのかというと、そうではなくて、Eテレのドキュメンタリーでも似たような場面があって、ろう者が本式の手話を、指文字が出来る健聴の友人に教え込もうとして嫌がられるシーンがあった。

これは何故なんだろうと考えてみたんだけど、指文字って存在は、どうも音声言語上で思考する健聴者と、手話言語上で思考するろう者の境界線らしいんだな。

でもそんなに困難な壁ではなくて、ある程度努力すれば出来るはず。努力するのが面倒なのやら、努力の仕方が分からないのやら…。そもそも手話なんてどうでもいいって思っているのかもしれません。

「雨」という手話を表すためには、「雨」という手話を覚えなきゃならない。でも指文字で「あ」と「め」の表せたら、それで済むわけじゃないですか? 指文字って、音声言語に置き換えが容易なサイン、というよりも音声言語そのものといっても過言じゃない。 健聴者からすれば、それで何かが伝えられたような気がしているわけ。

でもなぁ、それじゃ要件を伝えることは出来ても、意見や気持ちが伝わらないんじゃない?

やっぱり妻とは口話でやってくしかないのかな。昔はあんなに手話をやりたがっていたのに…。諦めちゃ駄目だろ。

手話って難しいですね。

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