日曜日の空腹時血糖値は118mg/dlです。

 

先日、郵便受けに入っていたDOCOMOからの通知を開封して、電話料金の高さにビックリてしまいました。

あまり見ないようにしているんですが…。

僕個人の携帯料金は、一切電話しないから安いんです。何しろ難聴で人嫌いですから、ネット閲覧ぐらいしか使ってない。

問題は妻です。

こいつが家で姿を見かける度に誰かと話をしている。

喋ることが大好きな人です。人間が大好きな人です。

この人の母親もおしゃべりで、現在大分に独居しています。

妻の電話の7割方は母親が相手だと思います。

僕はというと、すごく緘黙な男で、もう岩のように押し黙っている。

やはり難聴であることが寡黙な一因だと思います。

妻が手話を学ぼうと頑張っていた時期があったんですが、ある時から表情が暗くなり、急に「別れる」と言い出した。

手話が出来ないから…ということらしい。

彼女の手話学習にしばらく付き合ってみて思ったんだけど、音声言語主体で育った人と視覚情報主体で育った人とはもちろん上達速度が違うし、音声優先だと、なぜそういう手の形をするのか即座に理解が難しいし、指文字とかも覚えにくいんじゃないかと思います。

彼女、頭悪くないのに手話に関しては全くダメで、僕は当初、頭が悪いんだと思っていた。

でも手話を学ぶうちに、自分が健聴者と渡り合うのに、視覚情報を活用していたことが分かってきました。

つまり聴こえていない部分を、視覚でカンニングしながら補足的な情報を得ていたわけです。

無意識に。

これはコロナになって皆がマスク着用するようになってよく分りました。これまで自分が取れていたと思っていたコミュニケーションは、実は口の動きを読んでいたのだと…。

今はそうでもないけど、パンデミック当初は辛酸を舐めました。結構精神的に追い込まれてた。

コロナ禍で忍耐を強いられたせいか、「出来ないこと」を意思表示することの大切さを痛感するようになりました。

聞こえないなら「聞こえない」って言うべきだと分かってきた。

僕が歳を取っても日本手話を覚えられたのは、そういう下地があるから。でも聞こえる人は音声だけでコミュニケーションが完結してしまうので、いきなり音声情報なしというのは無理がある。

だから健聴者の多くが音声表現も兼ねた、日本語対応手話を選ぶのは理にかなっている。

実は日本語対応手話も馬鹿にしてたんです。でも今では考えを改めました。

それで妻についてだけど、僕は「手話は覚えなくていい」って言いました。

別に手話なんか無くっても何も困らないし、これまで手話の環境にいたこともない。

だから無理せんでもいい、と。

世の中「努力すれば不可能なことなんかない」って言い張る人がいるけど、いやいや、ちゃんとありますって…。

僕はもっと他人に寛大であるべきだと、自分に言い聞かせています。

それで電話代がかさむのは辛いけど、今まで通り、電話で好きなだけおしゃべりしてていい、と思った次第です。

せめて、LINE電話にしてくれたら助かるんですけど。

でもそうなると今度は義母の方が混乱するし、IT格差とかもあるかもしれませんが、コミュニケーションとは、何とも悩ましい問題です。